~ Salut d'amour ~
意外なほどに長い睫毛が細かく震えて、やがてうっすらと瞼が開く。
そこから覗く瞳はぼんやりとして焦点が合わず、彼がまだ夢うつつにあることを示している。
僕はこの瞬間が好きだ。
普段は人慣れない野生動物のようなところのある彼が、無防備にその身を晒し、気を許してくれているのが分かる。
だがそれもほんの少しの間だ。覚醒するにつれ、彼の目に意思が宿り、光が強くなっていく。弛緩していた体の隅々まで生命の力が行き渡り、そうなればもう、彼はいつもの日向小次郎だ。
僕はまるで日の出を待つような心持ちで彼の目覚めの過程を見守り、それから彼に声を掛けた。
「おはよう。日向」
「・・・おはよ。・・・何だよ、先に起きてたなら起こしてくれりゃいいのに」
君の寝顔を見ていたくて先に起きていたのだ、とは言わない。きっと鼻で笑われるだろうから。
日向は上半身を起こして伸びをすると、子供のような手つきで目を擦った。その彼の手と頤を捉えて、唇に軽くキスをする。
「顔を洗っておいで。朝ごはんにしよう」
日向は照れるでもなく「ん」と頷くと、ベッドを出て大きなあくびをした。
ヨーロッパでのシーズンを終えて海外組が帰国してくる中、日向も人知れず日本に戻ってきていた。帰国の時期を知らされたのは家族や一部の親しい人間だけだろう。取材を受ける、インタビューに答えるといったことは、昔ほど苦手にしているようではない。だが空港や街などで一般の人に騒がれるのは相変わらず好きではなさそうだった。
「外でキャーキャー言われたって恥ずかしいんだよ。試合会場とか、ファンイベントならいいけどよ。そういうところで子供が寄ってくりゃ、それは俺だって嬉しいしよ」
「あれか。察するにイタリアに出発する時の騒動がトラウマになっているようだね」
「・・・嫌なこと思い出させんなよな」
苦虫を噛み潰したような、とは正に今の日向の表情を言うのだろう。おかしくて僕は笑う。
ユヴェントスに入団するために日本を発った日のことは、見送りにいった反町から聞いている。彼もまた楽しそうに教えてくれた。集まったファンたちから『コジコジー!』と呼ばれて、最初はポカンとしていた日向のこと。それが自分を指していると気づいてからの、彼の表情が最高だったということ。『日向命』と書かれたTシャツを着た男性がいて、本気で引いていたらしいこと。今思い出しても面白い。
「何かお前、今ロクでもないこと考えてるだろ」
「ん?・・・いや、そんなことはないけど。」
「嘘つけ!お前に関しての俺の勘は、結構当たるんだからな!」
僕の用意した朝食をつつきながら、日向が上目づかいで僕を睨む。無論本気で怒っている訳ではない。彼が本当に怒りをあらわにしたなら、こんなに可愛らしいものではない。彼が一旦荒れ狂えば、それはさながら嵐の様相を呈するのだから。
「さて、日向。今日の予定は?」
「香さんと待ち合わせして、その後雑誌の取材が二本。どのみち午後だからのんびり出るよ。三杉は?」
「僕も午後から練習だね」
ならば午前中は少しゆっくりするか、それとも近場を散歩するか・・・と考えていたら、日向が「時間があるなら、後でアレ弾いてくれよ」と言ってきた。アレ、が何を指すのか、僕には分かる。寝室の隅に置いていた楽器。独り暮らしをすることになった時に、他の荷物と一緒に実家から持ってきていたヴァイオリンだ。それを日向が目敏く見つけたのだ。
「うーん・・・。最近あまり練習してないんだけどね。いいよ。何が聴きたい?」
「何でもいいよ」
何でもいい、が一番難しいんだよな、と僕は悩む。言い訳になるかもしれないが、プロサッカー選手でもあり医大生でもある僕はそれなりに忙しい。楽器を触る機会は以前よりも確実に減ったから、速い曲では指が回らないかもしれないな、と思う。
それでもヴァイオリンを弾くのを止めようと思ったことはなかった。今は習っている訳ではないけれど、それでも完全に止めてしまうには未練がある。幼い頃から続けてきたというのもあるが、日向がこうして聴きたがるから、というのも理由の一つだった。
知り合った小学生の頃、実は自分は音楽が得意科目なのだと、彼は照れたように明かしてくれた。
日向と出会ったのは僕らが小学5年生の時だった。
弥生に誘われて、彼女の兄が入っているサッカークラブの試合を応援に行った。それほど大きな大会ではなかったと思う。
優勝したのは埼玉県から参加した明和FCで、そこに日向がいた。
6年生を中心に構成しているチームが多い中、5年生の彼は特別に体が大きい訳でもパワーがあるようにも見えなかった。だが彼が一旦ボールを持つと、ピッチの空気も応援席の雰囲気も一気に変わる。敵も味方も無かった。彼がボールを持って走れば、ゴールを決めるまではもう誰にも止められない。試合をしている当人たちも、見ている観衆も、その場にいる誰もがそのことを理解していた。小さな会場ではあったし、出ているチーム数だって多くはなかったけれど、彼は他の少年たちとは明らかに異質で目を惹いていた。
当時の僕はスポーツ全般を両親によって禁止されていたので、当然サッカーも経験は無かった。競技自体に興味がない訳ではなかったので、海外リーグの試合や日本代表の試合はチェックしていたけれど、それでも自分がボールを追って走るなどということは想像したことも無かった。病気のことを考えればそれが当たり前だとも思っていたし、サッカーをできないからといって生活するうえで特に不都合も無かった。
今にして思えば、僕は随分と冷めた子供だったのだろう。スポーツをしている友人たちを見ても、こうして目の前で走っている人たちのうち、一体どれだけが将来この競技を職業としていけるのか そんなことを考えるような子供だった。
勿論それを表に出すことは無かったけれど、だがそんな考えがずっと根底にあったのは事実だ。だから必要以上にスポーツにのめり込む人たちのことも、僕には到底理解できなかった。決して僻みという訳ではない。費やす時間と労力に対して得られるものがあまりにも不確定に過ぎるのに、それに賭ける理由が分からなかったのだ。
だが僕は日向を見つけてしまった。
きっとこの子はいつかプロのサッカー選手になって、世に出ていくのだろう そのことに何の疑いも抱けないほどに、彼は強くて貪欲で、圧倒的だった。大人になった彼が大きなスタジアムで縦横無尽に駆ける姿すら想像できた。そんなことは初めてだった。
いっそ清々しいほどに苛烈で破壊的な彼のプレイは、見る者の価値観や理屈などお構いなしにグイグイと心の中に入りこんできて魂を揺さぶる。彼が自分よりも大きい体格をした選手を蹴散らかしていく度に、接触して倒れても誰よりも早く立ち上がって走りだす度に、僕は彼に問われているような気がした。
お前は人生を一度でも本気で闘ったことがあるのか、抗ったことがあるのか と。
その頃、僕は僕なりに課された制限の中で上手く生きていたつもりではあったけれど、それは両親の望む生き方であって、自分が望んだことではなかった。そのことに僕はとうに気が付いていたのに、そうでないふりをしていた。
駆ける日向を見つめながら、これまで見送ってきた幾つもの「したいこと」を思い返して、僕は自分の足で新たな一歩を踏み出す時が来たのを知った。もう立ち止まっている場合ではなかった。
その夜のことだ。僕が両親に「サッカーをやりたい。クラブに入りたいんだ」と告げたのは。
病気だとしても、将来に結びつかないとしても、僕は今走りたいのだ 僕の言葉に彼らは酷く困惑していたが、僕としては憑き物が落ちたような心地だった。
「僕の家に、海外リーグの試合を録画したものが沢山あるよ。君さえ良ければ見に来ないか?」
6年生になり、公式の大会や練習試合で顔を合わせるようになって親しくなった頃、家に来ないかと日向を誘ってみた。彼は諾と返事をくれた。恐縮するでも喜ぶでもなく、単純にメジャーなクラブの試合に興味があるようだった。彼のそんなところが好ましいと思った。
彼が家に遊びに来るようになって何度目だったか、日向を迎えに行って一緒に帰宅すると、弥生が来ていた時があった。彼女の母が僕の母と約束をしていて、弥生もついてきたとのことだった。
「淳、お帰りなさい。待ってたよ。・・・日向君、だよね?初めまして」
「・・・こんにちは」
ぶっきらぼうに言葉少なに返事をする日向は、よく見ると首筋を朱く染めて微妙に弥生から視線を逸らしていた。
弥生は清楚な白いワンピースを身に纏い、亜麻色の髪を揺らして日向に微笑みかける。色素の薄い瞳が長い睫毛に縁取られ、僕からみても可愛らしい少女には違いない。だが彼女は自分が他人からどう見られるかもよく知っている子だった。日向がファーストコンタクトで弥生を相手に勝てる筈など無かった。
僕は何となく気分を害し、「僕は日向と約束があるから、部屋には来ないでくれ」と言い置いてその場を立ち去ろうとしたが、「えー!ヴァイオリンの発表会の練習をしに来たのよ!淳、一緒に弾いてよ。1回でもいいから!」と弥生に強請られ、更には母と彼女の母親にまで頼まれて、不本意ではあったが付き合うことになってしまった。
「何の話?俺、帰った方がいい?」と、日向が尋ねる。
「いや、その必要はないよ。・・・弥生とは同じヴァイオリン教室に通っていてね。今度の発表会で一緒に弾くんだ。一度だけ練習に付き合ってもいいかな?君は僕の部屋で待っていてもいいよ」
「へえ、ヴァイオリン?俺、そんなの近くで見たことない。面白そうだから、ここで見ててもいいか?」
気を利かせたつもりが、日向は予想に反して興味を示してきた。社交辞令ではなく、本当に聴いてみたいのだというのは彼の顔を見れば分かった。
発表会用に弥生が選んだ曲はバッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」第1楽章で、僕が1stで弥生が2nd、ピアノを母が弾いた。
冒頭は2ndヴァイオリンとピアノから入る。僕の出だしまでは間があり、ソファに弥生の母と並んで座っている日向に視線を向ければ、楽しんでいるのが見て取れた。
不思議な少年だと思った。彼の家は既に父親がなく、彼がアルバイトまでして家計を支えている。到底クラシック音楽などに縁はなさそうなのに、自然体でそこに座っているのだからやはり変わっている。
2ndを追う形で1stヴァイオリンのフレーズが始まる。合わせてみると、まだ弥生の練習が足りないのが分かった。一人で弾いていればさほど目立たない音程のズレも、どうしたって2台で弾けばひっかかる。
(あ、また )
音程も難があるが、いくつかの箇所で走り過ぎる。余裕が無くてピアノの音も僕の音も聞けていないのだろう。本番までにはもう少し何とかして貰わないと。
結局のところ、今日は一度だけでも合わせておいて良かったのかもしれない。
「ママ、どうだった?」
「うん・・・そうねえ」
曲を弾き終えて、弥生は自分の母親に尋ねた。弥生の母親は困ったように微笑んでいる。そも青葉家には弥生に音楽家になって欲しいと思っている人間などいない。彼女は僕がやっているから始めただけだし、本人が楽しんでいればいいという了見だろう。だが一緒にステージに立つ僕からすれば、中途半端では困る。
「よく無いよ。全然、練習不足」
僕は弓で楽譜を指し示した。弥生がミスをしたところは、既に先生に指摘されているようで書き込みがされている。
「ところどころ音程が怪しいし、それにここ・・・・もっと丁寧に弾いて。テンポも勝手に変えないで。注意されていることが修正できていないってことは、練習が足りないってことだよ。これは君の発表曲なんだからね」
僕は僕で別の曲を準備している。この曲はあくまでも弥生の発表用であり、弥生のために僕は弾くのだ。
「えー。ちょっとは前より上手になったと思うんだけどなあ・・・」
頬を膨らませて不満を訴えてくるが、それを可愛いと騙されるほどに彼女との付き合いは短くない。
僕が無視していると、弥生は何を考えたか「日向君は?どうだった?」と彼に水を向ける。問われた日向はきょとん、とした表情で「俺?」と訊き返した。
「弥生。日向は音楽なんてやってないし 」と言いかけたところ、「ちょっと見せて」と日向が立ち上がってやってきて、楽譜を手にとる。そして「あー、そうなんだ」と呟いた。
「日向?」
「あ。・・・ああ、ごめん。幾つか音が気持ち悪いところあったから、本当はどういう音なんだろうって思って。こことか、ここ」
楽譜を指でさし示す。僕が気になったのと同じ箇所だった。
「・・・うん、とても綺麗な曲なんだな。本当はこうなってたんだ」
そう言うや否や、日向はそのフレーズを歌いだした。正しい音符を、ほんの少しの狂いもない、正しい音程で。
僕は驚いた。
「日向。君、楽譜読めるんだ?何か楽器やってる?」
「楽器?やってる訳ないじゃん。俺、サッカーしかしてねえもん。だけど音符くらいは読めるよ。だってそんなの、アイウエオと一緒だろ?文字が読めれば本が読めるじゃん」
それと一緒だよ そう言って、日向はまた歌う。楽譜通りに、音の長さも高さも、休符さえも一切違うことなく。
弥生も、弥生の母親も、僕の母も唖然としていた。それはそうなるだろう。4,5歳でピアノやバイオリンを始めさせた我が子よりも、よっぽど音感に優れている少年が平然と「サッカーしかやってない」と言うのだ。
僕は笑った。気持ちが良かった。人の才能なんて、こんなものだ。不公平かもしれないけれど、幾つもギフトを与えられる人もいれば、一つとして受け取れない人もいる。
そしてハンデも。望むと望まないとに関わらず、与えられる人間もいれば、そうでない人間もいる。そんなものだ。そのことに何も感じない訳ではないし、思うところは色々とあるけれども。
だけど日向もまた制約の中で生きている。彼は好きなサッカーをする時間を削ってまで働いて、そのうえ幼い弟たちの面倒を見ているのだ。
大変なことには違いないだろう。それでも彼はいつでも楽しそうだった。自らの境遇に悲壮感を抱くこともなく、その時にできる最大限のことを当たり前のようにこなしている。どこまでもあるがままの自分で、日々を真っ直ぐに生きている。
僕はどうだろうか。
苦し気な顔をして走っているのだろうか。それとも風を切って当たり前のように走れているのだろうか。
君と出会って変わったのだということを、いつか打ち明ける日が来るのだろうか。
軽やかで美しい声を持つ少年は、僕を振り向いて笑う。「俺、得意科目が音楽なんだ」と、少し照れくさそうに。
僕も笑って彼に告げた。
「君の場合、音楽の神様よりも多分ちょっとだけ、サッカーの神様の方が強かったんだね」
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大人になった彼は昔僕が想像したとおりにプロのサッカー選手となり、いまや日本中で知らない人はいないほどの有名人になった。CMや街角の巨大ポスターにも起用されて、彼の顔を見ない日は無い。
その彼が今こうして僕のマンションでソファの上に寝そべり、寛いでいる。そして僕に「ヴァイオリンを弾いて」とリクエストを寄越す。
人生は何があるか分からない。
僕はハンデを持って生まれてきたけれど、外で走り回れない代わりに、サッカーの試合をおそらく同年代の誰よりも数多く見てきた。お蔭で自分でも気が付かないうちに、ピッチの上でどう動けばいいのか、どうボールを回せばいいのかを学び、戦術を理解するようになった。結局はそれが僕の力となり、僕もまたプロの選手となった訳だ。本当に何があるか分からない。
イタリアと日本。遠く離れた地で僕らはそれぞれにボールを追う。そして休暇になればこうして日向が僕の家に来るか、僕がイタリアに飛ぶ。僕らは見た目も中身も、育ってきた環境も何もかもが異なるのに、不思議と諍いを起こしたこともなく、至って平和に過ごしている。性質のよく似ている松山と日向が顔を合わせる度に喧嘩しているのと対照的だ。
日向と僕との共通点はおそらくサッカーのみ。それでも彼といるのは楽しいし、会話が途切れることも無い。彼さえいれば僕の頭上はいつだって快晴で、雲一つない上天気だった。
日向にとっても同じだといいと思う。
いま彼は僕が手渡した楽譜をパラパラとめくり、気になる曲があればいつかのように歌いだす。機嫌よく、柔らかい表情をして。
「これ。何か・・・曲調もそうだけど、タイトルからして甘い感じだな」
「どれ?歌ってみて」
なるほど、日向が奏でる歌は確かに甘い。これは作曲家が自分の婚約者に捧げるために作った曲だ。それは甘くもなるだろう。続きを僕がヴァイオリンで弾くと、彼は満足そうに目を閉じた。
こうして二人でのんびりと過ごす時間もとても楽しいけれど、そろそろ終わりにしなくてはいけないだろう。時間には限りがある。午後には二人して別々の用事があるのだし、日向はそのまま明和の実家に向かう。
「日向。お互いに午後から出かけなくちゃいけないだろう?午前中をこれだけで過ごしていいのかい?なんだったら近場に出かけてもいいんだよ?」
僕がそう提案すると、日向は少し思案するように首を傾げて、だがはっきりとこう答えた。
「うーん・・・。でも、どっかに行くなんて勿体なくねえか?せっかくお前と二人でいるのに」
本当に君は 。いつだって僕を照らしてくれる太陽であり続ける。
「でも、そうだな。時間が限られているんだったら」
日向はソファから立ち上がり悪戯っぽい笑みを浮かべて近寄ってくると、僕の首に腕を絡ませた。そうして僕の頭を引き寄せて耳元で囁く。
「昨日の続き、あっちの部屋でしようぜ?」
昨夜はお互いに好きなだけ相手を貪ったというのに、彼はまだ足りないらしい。だがそれは僕も同じであるから、異論は無かった。僕らはまだ若くて、離れていた時間を埋めるには一晩ではとてもじゃないが全く足りないのだ。
「さっきベッドから出たばかりなのにね」
「あれは休息。今度は運動。昨日のは慣らし。ちょい激し目にいこうか。この家が防音完備で良かったよ」
「そのために防音にした訳じゃないけどね」
セックスのために防音にした訳じゃない、というと「そりゃそうだ」と笑われた。「少しはそのためでもあるけどね」というと、もっと笑われた。
日向の手を引いて寝室に向いながら、僕は考える。本当に人生は何があるか分からない。ライバルで友人であった筈の男の子を口説き、恋人にする日が来るのだから。
僕は日向をベッドに横たえ、キスを落とす。顔中に、体の隅々まで、時に跡が残るくらいに強く。愛していると囁けば「分かってるよ。俺もだよ」と、彼は謳うように僕に応えた。
END
2016.06.23
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